左の写真はかぼちゃである。両脇に麦が植えられており、冬の間は海からの強風を防ぐ、防風林の役目をしている。
また、彼はこの広大な砂丘地を農地として利用することを考え、試行錯誤の後、果樹園栽培に成功する。谷口さんの
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海岸沿いに、塩江、磯へ(2004年5月)
丹後半島は、山陰海岸国立公園に指定されているが、5月の連休を利用してじっくり、その海岸の一部分を探索してみる
事にした。
まず我が家を出て、海岸沿いに東の峠を越えると、塩江に出る。我が家も曽祖父と祖父の一時期は、ここの住民であった。
浜詰に越してからも、塩江にお墓も親戚もあり、お盆には塩江に墓参りに出掛けた。
その墓地は小高い丘にあり、下を見下ろすと真下に、真夏の光にきらきら輝く塩江港が見える。
当時、小学生だった私はその美しさに魅了されてしまい、その風景を見たい為に、その後も塩江に墓参りについて
行ったものだった。
今回もその墓地に登ってみた。かつてはもっともっと真下に見えた塩江の海岸は、以外に近くにあったが、昔のままの優美な姿を
保っていた。
防波堤の内側には、塩江港があり、戸数わずかな塩江の村が螺旋階段状に上にのびている。ここでもかつては、丹後ちりめんで栄えたが、
平地が無く農耕に適した土地もわずかで、浜詰などに転出した家も多い。
多くは漁業で生計をたてていると思われるが、
若者は他の地へ出て行ってしまうのだろう。
民宿も無く、観光産業も期待のできないこの地であるが、昔のままの紺碧の海に1本の白線を残しながら、港から沖へと漁に出掛ける船を
眺めていると、かつてこの絶景に感嘆した小学生の自分を思い、強烈な郷愁に駆られるのだった。
後ろ髪を引かれる思いでその墓地のある丘を下り、車の停車してある塩江港にたどり着き、次にめざしのは私のまだ行った事の無い五色浜
である。
海岸線沿いに車を走らせると、立派な駐車場やトイレの完備された五色浜園地がある。
その日本海が一望される駐車場を案内板に従って下って行くと、平坦な岩場のつながるヒロイソに出る。
そこには海岸でのんびり釣りや海草取りを楽しむ、行楽客の姿があった。
五色浜と言う名前は、昔からこの浜には、長年波で磨かれたきれいな五色の小石がたくさん有り、この名が付いている。
昔は海岸伝いにしか、この浜に出る事ができなかった為、小石を持ち帰ることができるのは漁師くらいであっただろうが、今
でも浜に五色の小石があるのだろうか。
実家の庭には植木鉢の土の上に、ここの石がのったのがある。但し、本当は取ってはいけない
石である。
それにしても、雄大な景色である。心が洗われるとはこういう景色を言うのだろうと、しみじみ思う。
ここから、次に磯に向かう。この磯と言うのは地名である。
ここも塩江に似た小さな漁村であるが、ここには「静(しずか)神社」がある。あの源義経に出てくる静御前である。
この地で生まれたと言われている。
車で移動中、途中でこの先工事中の看板を発見する。少し行ってみるが、今回はこの先はあきらめて次回にまわす事にする。
磯を過ぎると、東経135度、日本標準時子午線の最北の地の子午線塔があり、浦島太郎の伝説の地、網野へ続く。
どこまで行っても飽きる事の無いすばらしい景色が続く、丹後半島の海岸めぐりであった。
(写真をクリックすると大きくなります。)
浜詰海岸の昼と夜 (2004年3月)
私の実家の裏に出ると、目の前に白い砂浜が広がっており、夏は海水浴のお客で賑わいます。この写真は3月に取ったもので
2、3人が海岸を散歩する以外、海岸にはただ波が寄せては返しておりました。
夏に夕日が沈む頃になると、空を真っ赤に染めながら、赤い大きな太陽が海へと落ちて行きます。
地元の者でも、その光景にはいつも圧倒され、見惚れて立ちつくし、太陽が完全に見えなくなるまで見つめ続けてしまいます。
左の写真の、突き出た岩場をつなぎ浜と言い、私の子供の頃は松が3、4本生えており、小学校の校歌にも「つなぎの浜の松ヶ枝に..」
と歌われていましたが、今はその松も枯れて無くなっています。
この岩場を越えて向こうに出ると、夕日港という漁港に出ます。
大敷網という漁法での漁が行なわれており、ハマチや鯛などが取れます。
その外、海苔や若布、イカなど豊富な海の幸に恵まれ、夏は海水浴に、冬にはカニと温泉を求めて、観光客が詰めかけています。
この地は、かっては丹後ちりめんが盛んに織られ、道に出るとガッチャン、ガッチャンと機織りの音が響きわたっていたものでした。
今はそれに替わって、鳴き砂とも言われる、きれいな砂を持つ広い浜と澄んだ海で、新たな観光産業に乗り出し、たくましく頑張っています。
10月9日(土) 台風22号の近畿上陸が際どくもずれ、9日から11日まで帰省。
従姉妹から、9日から11日までの連休に、田舎に帰らないかと言ってきた。彼女の運転で、車で帰るのだが、1人では不安なのである。
彼女の母親が圧迫骨折で入院しており、ぜひ見舞いたいとの思いが彼女にはある。私の父方の叔母でもある。
特に用事も無いので、一緒に帰ることにしたが、7日頃から今年1番の大型台風が接近しており、出発当日には近畿に上陸との
予報がでている。8日の金曜は予報通りの強風や大雨が降り、明日の近畿上陸は間違いなしを予感させていた。
多分、9日の帰省は無理だろうと朝寝坊をしていると、彼女から「台風は南に反れたから行こう。」と言ってきた。慌てて支度をして
出かけることとなった。彼女の母親への思いが、台風を押しやったのかもしれない。
田舎ではちょうど秋祭りでもある。我が故郷の志布比神社は、写真通りの小さな可愛い神社である。
浜詰の東の端を、海岸沿いに10分程歩くと、石の鳥居が右手に見えて来る。
大晦日には、テレビの除夜の音が鳴り出すと、村人達が初詣にこの神社にお参りする。
私の小さかった時分はよく海が荒れて、神社近くになると、海岸沿いの道を覆いかぶさるように白い波しぶきが上り、そこを父に手を引かれながら、
波が引いた隙を急いで走り抜け、結構怖い思いをしながら初詣をしたのを思い出す。
今回も父と一緒にお参りすることになった。神社の鳥居をくぐり、石段を上り、足が上にあがりにくい程疲れた頃、神社に到着した。
まず、鈴を鳴らしてかしわ手を打ってお参りをしてから、右まわりに社を3周し、それが終わったらもう一度お参りをする。
そして、お正月でも秋祭りでも、お神酒を頂きおもちを頂いて帰るのである。
海が大好きな父は、社を3周する時に、海に向かって海の神にもお祈りをする。これも子供の時からのしきたりである。
私も、80歳を超えて尚、海に漁に行きたがる父の無事をお祈りする。
無事、お参りも終えて帰りかけるとそこに、だんじりがやって来た。小さな神社に合わせたような可愛いだんじりである。それを見たところ、小中学生達と
その親くらいの年代の男達がひっぱっている。女の子も混じっている。
私の子供の頃と、随分違っている。私の子供の頃は岸和田のだんじりと同じくらいの大きさだったように思う。だんじりを、村の中を引き回す時のゴロゴロという地響き
や、男達の勇壮な声とが家々に響き渡り、祭りのおよばれに来ていた私より2歳年下の従姉妹は、だんじりが近づくと、その音におびえていつも泣いていたのを思い出す。
その立派なだんじりは、いつの頃の秋祭りかに、橋の上から下に投げ落とされたそうで、今はもう無い。乱暴なことをしたものである。
なぜそんな事をしたのか。秋祭りの度に、だんじりかぎに呼び出される若い衆達が、それが嫌さにそんな愚挙に出たと言うことであるようだ。
それを聞いた時、何も無い田舎で、唯一子供のわたしにとって、十分刺激的であり心躍らせられた、だんじりを想うと本当に寂しかった。子供心にも、だんじりへの郷愁を抑えかねる思いがあった。
現在の可愛いだんじりを見送った我々は、石段を降り海岸沿いの道を、夕日港をめざして歩いて行った。父の毎日の散歩コースでもある。
今は、イカ漁(ここではアオリイカと言う)の時期である。夕日港の沖に見える、白い波の立っている防波堤の外あたりで、夕方からイカ漁の明かりが点る。
父も漁師に混じって丸子舟を操りアオリイカをたくさん取って帰る。
それを冷凍して置いて、我々子供達に送ってくれたり、お正月のご馳走になったりする。
さしみにして食べると、歯に柔らかく、ふんわりとした上品な甘みがあり、とても美味しい。
今回も、このイカと魚と、砂丘地のおいしい旬のサツマイモと、秋祭りのご馳走を車に積んで帰りました。
5月2日(日)5月の連休、快晴です。
今日から、例の従姉妹たち3人組で帰郷する事になった。
今回は彼女たちの娘(高校生)も連れてのにぎやかな旅となった。
車のコースを詳しく書き留めて見ることにする。
まず大阪の泉大津より、甲子園の我が家へ午前8時に到着、鳴尾御影線を経て中津浜線へ、あとひたすら宝塚をめざして走る。
宝塚に入り、阪急仁川駅。右手に阪神競馬場。宝塚市役所の前を通り、武庫川を渡り中国道に入る。
時計を見ると8時35分。ここからまた、30分程で舞鶴若狭道に入り福知山をめざす。
いつもここまでで、一度はアクシデントがあるが、今回はスムーズである。
運転手も慣れてきたらしい。
福知山で高速から降りて、福知山の市街を走る。福知山城公園を通り過ぎると、由良川がのどかな田園の中をゆったりと
流れている。
私達もしばらく由良川と一緒に5月の新緑の中を走るが、途中由良川にさよならして、左に曲がる。
由良川はそのまま真っ直ぐ流れて、最後には宮津市の栗田湾へ流れ込む。
左に曲がる目印に、道端に鬼の看板がある。彼女たちは常にそれを目印にしており、「鬼の看板はまだか、まだか?」と
うるさい。いつまでこの看板があるのか知らないが、これが無くなったら帰れないらしい。
めでたく「鬼の看板」も見つかり、我々は左に曲がって鬼退治で有名な大江山を越える。トンネルを幾つか越え、最後に
「与謝トンネル」を越えると、四方を山に囲まれながら広い盆地の広がる加悦町である。
ここまでくれば、彼女たちもやれやれと言った表情に変わる。
加悦町の「蛭子山古墳」「作山古墳」などが復元された古墳公園を通り過ぎると、本当に広大な田園風景がどこまでも続く。
野田川町である。
あとは、我が庭といった感じで運転にも余裕が出てくる。
小野小町の里、大宮町に着き昼食を取る事にする。
約50分の休憩後、ちょうど12時に峰山町に向け出発。峰山城跡を左に見ながら走る。途中、郷村断層の案内版があるが
「なんだろう?」と言いながら、府道から国道178号線に入り、網野町に着く。ここには子午線最北の地でもある。
我々の目指す「浜詰」は、京都府京丹後市網野町浜詰である。
4月までは、京都府竹野郡網野町浜詰であったが、今走って来た5町プラス1町がこの4月に合併して京丹後市になった。
と言う訳で、なつかしの我が故郷の海が見えてきました。
父が取ってきたワカメが干してありました。
磯の香りがあたり一面に漂っています。
3月21日(土)曇り時々晴れ
私の父は現在83歳である。
なにより海を愛し、漁に出てはたくさんの魚を取ってきて家族や訪問者を喜ばせている。が、一番喜んでいるのは、
勿論父本人であるが。
今の時期は、漁ができず一番元気が無い。機嫌もよくないし、体も調子が悪いらしいが、家族の者達は気にしない。
春になり、海に出掛ける事が出来るようになれば、すべては解消するからである。
魚以外にも、海からいろいろな物をもらって来る。
漁の出来ない冬は、砂浜に打ち寄せられている貝殻や流木を拾って歩く。
そして、今は使われていない工場の一角を、倉庫代わりにして大量の流木を、収集している。
母はあまりに大量な流木の行く末が、心配のようで(父は何しろ83歳である。)「ちょっと見てやって。」と
言われ、覗いて見て、
その異様さというか不気味さと言おうか、枯れ果てたものが放つ、硬質な香気で満ち満ちている有様に、母の心配がわかる気がした。
よくもこれだけ大量に集めたものである。
父曰く、年を取り船での漁が出来なくなった時、この流木で花入れなどの細工物を作って過ごす予定だと言う。
以前、神戸の小綺麗なソバ屋に入った時、壁にしつらえた棚に、流木が1本何気なく置かれており「いいな。」と
思ったことを、思い出した。
父の創作した作品が、細工しないそのままの流木を超える物になる事を祈りたい。
3月20日(土)曇り時々晴れ
20日と21日の連休を利用して、久しぶりに帰省した。帰省する時はだいたいいつも、従姉妹達と示し合わせて、彼女達の車で
帰る事が多い。私の実家の隣が、従姉妹達の実家なのである。
みんな都会に出たものの、何やかやといいながら、田舎に帰りたがる。
3月で松葉ガニも漁が終わるので、それを食べる目的もある。船が小さい為、その日に帰ってくる漁船から仕入れた
魚屋が、青いプラスチックの容器に生の松葉ガニを入れている。我が家に来るカニ達である。
カニの足に付いている緑色のタグは、どこの漁港で水揚げされたカニかを示している。
このタグは、はさみで切らないと取れないようになっており、正真正銘、地元のカニという証明になっているのである。
そのほかに、カレイ・沖キス・ハタハタが、その魚屋で1夜乾しされて売られている。
それをいつも土産に持ち帰るのであるが、これを食べると少しの間、他では食べたくなくなるので困る。
しかし、どこの魚屋でもよいと言うわけではない。
この魚屋で無いとダメなのである。
ほかの大きい魚屋は大量に仕入れる為、大型漁船の魚やカニを仕入れるのであるが、それでは鮮度が落ちてしまうのだ。
大型漁船は、何日も漁に出たまま帰って来ない。
とれた魚やカニをその日のうちに持って帰れないのだ。